ツイッターをやめた話

最近ツイッターをやめた。

とは言ってもアカウントは消していない状態なのでいつでも戻ることはできるし、アプリは削除したけど実はちょいちょいネットからのぞいていたりする。

これまでも時々ツイッターがしんどくなる時期というのはあって、そのたびにやめた方が精神衛生上良いのだろうなと思いつつ、私の生活のほぼすべてがツイッターにあるようなものだったのでここから離れたら本当に孤立してしまうな、という不安感があった。

今回ツイッターをやめてみようと思ったのには積み重なった理由がたくさんあるけど、結局ツイッターをやっていたところで私が孤立していることに違いないと思ったのはある。

仲良くしてくれた人も何人かいるけど基本的にはずっとひとりごと状態だし、自分から積極的に人に関わっていく気力も最近は特になくなっていた。

ツイッターを始めた頃はたとえ誰からも何も反応はなくても頭の中でぐるぐるしている考えを言葉にして外に出すことに喜びがあったと思う、でも今そういう純粋な喜びはあまりないし、反応がないことにもやもやしてしまうこともあった。

また、最近はあれをしてみようかなこれをしてみようかなというものが思い浮かぶとツイートして、実際に行動したらまたツイートして、ということを繰り返していた。

数年前から何をしても楽しくないという状態が続いていてどうにかしなければと思っていた。このブログタイトルもその気持ちの表れで、昨年末から今年はたくさんいろんな場所に出かけた。それはそれで大抵楽しかったけれど、だから何なのだろうみたいなむなしさも毎回感じていた。

出かけるたびにツイートして、いいねをもらうと「あ、行ってよかったな」と少し満足感があったけど、反応がなければなんだかむなしい気持ちが強くなる気がした。

私はツイッターの人に報告するために行動しているんじゃないかと自分を疑うようになった。ツイッターをやめたら私は何の行動もしなくなるのではないか? 誰に報告するためでもなく、どこかに出かけたり何かをやってみたくなったら、それが本当の私の望みなんじゃないだろうか。

これを書きながら、今私は誰にも報告するあてのない風景を見に行こうとしている。

ツイッターの息苦しさは他にもあった。

私はもともとツイッター向きの性格じゃないんだと思う。

もちろん自分にとっていい面と悪い面があって、通っている心理カウンセリングでもツイッターは続けた方がよさそうですね、と言われるくらい、自分の考えを外に出せるという面ではとてもよかったんだと思う。

発信には良くても、問題は受信だ。考えてみたら私は情報を遮断することでこれまでなんとか生き延びてきたというのに。

そういう自覚はあったから、フォローする人は厳選していて、自分で選んだ人たちはみんな好きだったけど、TLはそうはいかなかった。私の好きな人たちは私のように情報を恐れたりしないので、話題のツイートは望まなくても目に入ってくる。

世の中にはいろんな人がいるな、と感じるくらいならいいけれど、世の中にはいろんな人がいて、その人たちと比較しても私は普通じゃないな、と感じることが増えていて、社会から疎外されている気がしてしまうのだった。

多くの人が良いと言っているものが良いと思えなかったり、おもしろいとされているものがおもしろくなかったり。

話題性のあるものに興味が持てない自分は一般的ではないのだな、と思わされることはしょっちゅうだった。

まだある。私もどちらかというと嗜好がオタク寄りだと思うのでそういったジャンルをよく見るようになっていたけど、私はこの界隈の人たちとはマインドみたいなものがだいぶ違うようだった。かといって他に私がしっくりくる界隈などどこにもない。

それでもいいや、ひとりで淡々と好きな世界を極めよう、などと思えたらよかったのだけど、今の精神状態ではそれもできなかった。

ツイッター構文といわれるものがどうにも鼻について仕方ないとか発信者に都合のいい正論が溢れ返っているとか耐えがたい要素はいくらでもある。

そうだ、一番大きいのは時間が無限に吸い取られることだったんじゃないか?

今はツイッターから離れて、自分の生活や精神状態がどう変化するかようすをみてみようと思う。