横浜散歩
かねてからの体力低下の懸念に加え、このところ仕事のストレスによる過食がとどまるところを知らず、疲れているからといって家で休日ごろごろしていると大変なことになりそう…という後ろ向きな動機の散歩に出た。前回もそんなだった気もする。
体を動かすのが目的ならばどこを歩いても良さそうなものをもうどうしても東京都内で歩きたい場所が見つけられず、思いきって横浜まで行ってみることにした。
午前中の病院が思いのほか長引いてしまったおかげでみなとみらい駅に着いた時にはもう14時くらいになっていた。
とりあえずお腹がすいていたのでコンビニでパンを買って臨港パークへ向かった。
われながらせっかく横浜へ行ってとりあえずコンビニでパンを買うのはどうかと思うが……
空は晴れてはいなかったけれど風もなくわりと暖かかった。
海を眺めながらパンを食べ、12月にまだ屋外でごはんが食べられるのはありがたいなあと思った。
遠くの景色が淡くかすんで全体が空色がかって見えていた。
そういえば快晴の横浜って見たことあったかな?
橋を渡って隣の島(地名がわからない)へ。
このあたり、海や船を眺めながらのんびりしようとしたらいくらでも場所がある。
買い物も、食事やお茶するオシャレなお店もいくらでもあるだろう。私も誰かと一緒ならそういう場所を訪れるだろうが......
どこをどう歩くかは何も決めないままなんとなく港の方へやってきたけれど体力の増強を考えたら高低差のある場所を歩くべきだろうということで日が暮れる前に山手の方へ移動することにした。
移動中も飽きさせることのない魅力的な風景が続く。
この公園が横浜で一番好きかもしれない。
好きだけれどそのためには階段を上がらなければいけない。
体力は明らかに落ちていて息が上がり、他人と一緒に歩いていたら会話も交わせなさそうで困るなと思った。
何気なく展望台から景色を眺めたらガンダムがいて驚いた。
横浜にガンダムがいることは知らなかった。
まだ秋の名残を残した夕方の庭園は美しかった。
だいぶ夕方の気配が濃くなってきたので今日の散歩はこんなもんかなとこの段階で締めくくりの気持ちになっていた。
各地できれいな夕日を見ることに謎の情熱を燃やす私ですが、横浜は海が東向きだし西の方が高さがあって日没が早そうだしここでそんなにきれいな景色を望む気持ちも特になかった。
ちょうど外国人墓地の向こうに日が落ちるところは美しかったけれど写真はやめておいた。
時間的に洋館は見られないだろうと思っていたら意外に17時まで開館していた。
ただちょっとこのご時世入館にあたって消毒やもろもろやることがありそうだったので外から眺めるにとどめた。
クリスマス時期の館内は美しかっただろうけれど感性が摩耗しているので今回はまあいいやという気持ちだった。
外からでも美しい館の中のようすはのぞくことができて、それぞれの洋館の窓べに立ってまるでマッチ売りの少女みたいだななどと思っていた。
通りを歩いているとふと横道が目に入った。
何度かこの通りを歩いたことがあったけれど学校の敷地の横にひっそり存在していてこれまで気づいたことがなかった。
良い景色がありそうだな、と思うより先に体が道に吸い込まれていた。
進んだ先の光景は期待以上だった。
そういえば観光名所を巡ったりおいしいものを食べたりすることにそれほど興味がないのに知らない土地を歩くのが好きなのは時々思いがけずこういう出会いがあるからだったな。
自分の直感に任せて向かった場所で良いものを見つけた時のよろこびはクセになる。
学校のそばなので平日はにぎやかなのかもしれないけれどこの時はひっそりと静かで、時間が止まったかのような空間だった。
せっかくなのでここから遠くに見えていた山手イタリア山庭園の方にも行ってみた。
日は完全に暮れてしまったかと思いきやかすかな名残が美しく空を彩っていて、洋館とイチョウと夕空の色合いがとても調和していた。
本当は日が暮れたら再度港の方へ戻って夜の景色を楽しもうとしていたのだけれど、歩くのに適していない靴を履いていたためそろそろ限界が近かった。
坂を下ると中華街が近かったので、意外とほとんど歩いたことがない中華街を少し眺めて帰ることにした。
橋のイルミネーションの色合いがすでに新鮮。
中華街は中学の修学旅行で訪れたのと数年前に一度友人と昼食を食べたくらいで暗くなってから歩き回ったことはなかった。
それほど人は多くなかったけれどなるべく密接しないようにざっと歩くにとどめた。
街の色合いが独特で夜空にも映えていた。
何かを買ったり食べたりすることもなかったのでまたいつか来られたらいいなと思う。
横浜は気が向いたときに突然訪れることが多くて計画的な散歩ができたことがない。
まだまだ見られていないスポットも景色もたくさんあるはずなので、次は計画的に歩いてみたいな。
おわり。
散歩
このご時世、私お得意の引きこもり生活はむしろ推奨されるべきものかもしれないけれど、放っておいたら3連休を寝て過ごすことも十分あり得そうで、このところの著しい体力低下も危惧されあえて自分に外出を課す必要があった。
ある時のような「今日海を見ないと死ぬ」といった差し迫った危機感もなく、交通費をかけるのも惜しく思われたので定期圏内で散歩しようと考えた。
上京したての頃、時間はあってお金のなかった時代もよく定期圏内を歩き回ったものだった。
……あれ? 時間はまあまあるけどお金がないのは今も変わらずでは?
とりあえず電車に乗り、信濃町で降りた。
神宮外苑のイチョウ並木は今きれいだろうなと思いながらそちらへは向かわずに外苑と赤坂御用地との間の道を歩いた。
防疫意識というよりも純粋に人が多い場所が苦手なのと、この時期のイチョウ並木は何度も見たことがあったのでまあいいかなと。
なんとなく六本木方面を目指すにしても、散歩全盛期の頃の職場が赤坂方面だったためどう歩いても見知った景色ばかりになってしまう。
それでもなんとか歩いたことのない道を探りながら進んだ。
カンボジア王国大使館の辺りは初めて通ったと思う。
なかなかの急坂で、坂ブームだった頃ならきっとバシバシ写真を撮っただろう。
氷川神社の裏手の坂は以前もぐっときて写真を撮った記憶が鮮明にある。
あれは16時に仕事が終わってぶらぶら歩いた日のことだった。
神社は特に参らず素通りした。
このあたりからなんとなくとりあえずの目的地が定まって、またどうにか知らない道を選びながら進むとついに見えたよ東京タワー。
何か大掛かりな工事が行われていてクレーンがいくつも伸びていた。
それがすべて東京タワーの方向に傾いていて、さながら皆で東京タワーを崇めているみたいに見えたのだけど「崇める」じゃなくてもっとふさわしい表現があるような気がする。「傅く」? どうもしっくりこず、語彙力のなさがもどかしい。
とにかくこれがこの日見つけた一番良いものかな。
東京タワーは大きいので、もうすぐそばかなと思っても意外と距離があった。
近づくにつれて立ち止まってスマホを構える人の姿が増える。やはりそこはさすがの東京タワー。
私も例外ではなく。
ちょうど青空にタワーの赤色が映えていた。
少しのぞいてみた感じ親子連れなども遊びには来ていたけれど、やはり普段の休日とは人の数が全然違う気がした。
東京タワーの真下に森があるのがいかにも東京という感じだな、と思いながら寄ってみると「もみじ谷」という風流な名称が示されていた。
しかも10メートルほどの滝もあって、これが江戸時代ならきっと浮世絵に描かれる名所だななどとよくわからないことを思った。
ここは江戸時代からもみじの名所だったそうで、もしかしたらタワーはなくても実際浮世絵の題材になっているかもしれない。
以前見た増上寺越しの東京タワーはこれもまた「東京」という感じで良かったけれど、今増上寺は工事中のようだったので立ち寄らなかった。
敷地の脇を通った時お線香の匂いがして、最近自社仏閣を訪れるような旅をしていないなあと改めて思った。
とりあえず目指していた東京タワーを見終えてしまい、竹芝桟橋で船でも眺めて浜松町から帰るくらいがいいかな……と思ったのだけれど、めずらしくこちらの方面まで来たからにはもう少し足をのばさなくてはもったいないのでは、という貧乏性のさがで大門から大江戸線に乗って勝どきまで行ってみることにした。
今でも時々襲ってくる謎の「大きい水を見ないと死ぬ」という衝動は、考えてみれば若いころからあったようだ。
お金も行動力もなかった私には海を見に行くという選択肢はなく、どうしようもなくなった時にだけ東京の東側へ大きい川を見に行った。
勝どきや月島が精一杯の逃避行だったのだ。
今ではこの辺りからずいぶん足が遠のいていだけれど、生き延びられたのはこのエリアのおかげかもしれないんだよな。
きっとここ数年でこの辺りは大きく様変わりしたのだろうなと想像するけれど、有明方面を訪れるのは初めてだったので実際のところは知らない。
新島橋の手前で「十返舎一九の墓」と書かれた碑が視界の端に入ったのだけれど、そこそこ通行人の多い歩道でちょっと立ち止まることができなかった。
すべてが新しい街というわけでもなく江戸時代からの名残もあり、十返舎一九がこのタワマン群を見たらどう思うのだろうなどと考えた。
朝潮小橋という歩行者用の橋を渡った。
晴海の方へ渡るとあたりはますます十返舎一九も驚きの様相になってきた。
現地には何の説明も出ていなかったけれどグーグルマップで見ると「オリンピック選手村」と書かれた一帯があり、大きな建物がたくさん並んでいる割に人の気配はなく、都バスだけがやたら運行していたのだけれどあれはいったい誰を運んでいるのだろう?
意図せず「密」とは真逆の場所へ来てしまったなと思った。疎?
日没前に晴海ふ頭へたどり着いた。
竹芝桟橋ではなくこちら側へやってきたのは夕日を眺めるためでもあった。
現在の船の運航状況はよくわからないけれどターミナルも人はまばらで、訪れるのは良いカメラを手にした人やジョギングの途中で立ち寄ったような人くらいだった。
沈みそうで沈まない夕日を待ちながら、海を隔てて東京タワー方面やレインボーブリッジ、豊洲市場らしき建物群などを眺めた。
昨年はレインボーブリッジを徒歩で渡るブームがあり何度も歩いたなあ。
日が沈むと一気に暗くなり、あの人の気配のない街を通って帰ることを思うとつい足早にその場を去ってしまった。
帰り際逆にこれから埠頭へ向かう何人かのカメラマンとすれ違った。
あれは夜景狙いの人たちだったのかもしれない。
ゴミ焼却場の煙突が印象的で写真を撮ったけどこういうのは近所の人が見たら何をしているんだろうこの人はという感じだろうか。
これがシュールレアリスムか何かの絵画っぽいなと思いながら思い出せずにいる。
晴海のエリアには駅がないので勝どきまで戻った。
夕方の買い物客などがたくさんいて間違いなく人が生活している街なのだけれど、これまでの自分の生活圏とあまりにも違ってなんとなく怖いような感じがある。
最近JRしか使うことのない生活なので大江戸線にたくさん乗れて楽しかった。
そういえば定期圏内で散歩する話ではなかった?
まあいか。
おわりです。
植物Special
今日はたくさん植物を見た。
ツイッターにだらだら連投するのもご迷惑かと思いましたのでブログにまとめることにする。何がスペシャルなんだかわからないけど。
毎年この季節に思うことだけど桜や梅、バラなどと違ってキンモクセイの名所というのは聞いたことがない。
だいたいあれは人ん家の庭とか施設の敷地内とかに植えられているものであえて観賞に出かけるような植物ではないのかもしれないが、帰り道でふわっとにおうくらいでは物足りず、浴びるように嗅ぎたいというのはキンモクセイシーズンにいつも思うことだった。
植物園ならばそういった環境があるのでは? と踏んだ私はいつもの植物園に向かった。
園の季節の花だよりを確認すると確かに今月の花としてキンモクセイは載っていたけれど、場所については「各所」と記載されているだけだった。やはりあえての「キンモクセイ園」のようなものは存在しないということだ。
これはなぜなんでしょうね?
とにかく園内を歩き始めると探す必要もないくらいあちこちにキンモクセイの木はあって、しかも植物園のキンモクセイはどれも巨大だった。
大きすぎて写真に収めるのが難しい。
木の下ではちょっとマスクを外させてもらって浴びるように嗅いだ。
においは写真にも写らないし持って帰ることもできないのが残念だ。
おなじみの植物園なのでお気に入りスポットがあって、いつも写真を撮る。
海外に行ったこともないし実際どうなのかわからないのにこの風景が外国みたいだなといつも思う。もしかすると以前ここのベンチで「八人のいとこ」を読んだせいかもしれない。
いつもあまり人がいないし好きだなあここは。
園内のあちこちで彼岸花が咲いていた。
探すつもりもないのに赤い花が遠くからでも目をひく。
彼岸花の群生は何か意味深な感じがする。意思を持って集っている雰囲気がある。
遠くから見てオニバスってあんなすごい色の花が咲くんだ、と思って近づくとそれはなんらかのネットの色で、花は白だった。
萩にススキで秋の盛り合わせという感じ。
裸の状態でうねうねした不気味な姿しか見た記憶がなかったサルスベリがきれいな花を咲かせていた。
色の濃さの異なる花の重なりも美しかった。
ただ、サルスベリは夏の花らしい。盛りはすぎていたのかもしれない。
秋バラはまだ少し早いようだった。
バラがまだそこまででないせいかいつもいっぱいのバラ園のベンチも空いていて少し読書をした。
思い出のマーニーの上に落ちる木漏れ日がスポットライトのよう。
植物園を出て、移動した先でもまた彼岸花。
高い場所が好きなので上っていくと城跡で、そこにもまた植物があった。
ソバ畑。
ソバの花は可憐だな。
名前を忘れてしまった大きなふわふわ。
たくさんの人が遊んでいる芝生広場の端まで歩き、少し道を回り込むとたぶんだれも知らない秘密の場所があった。
あの世への道標。
道の先は竹林になっていて雰囲気たっぷりだったけれど、フェンスがあってあの世への通り抜け不可だった。
また移動をして川沿いの公園へやってくると季節感を狂わせるような光景があった。
なんだか春のようだ。
キンモクセイとは違って彼岸花には名所という概念があり、昨年に引き続き今年も訪れた。
今日すでに十分すぎるほど彼岸花を見ていたけれどやはりこれだけまとまって咲いていると圧倒される。
スマホのカメラで撮る時に少し明るさを落とすときれいに写る気がする。
遠目に見ると血の池地獄みたいだな。
人々の密集具合がわりと気になったので早々に離れた。
名も知らぬ花がたくさん咲いていた。
秋は花盛りなのだな。
尻すぼみにこれで終わりです。
7/18の日記
今日は寝ていただけだけど今週の出来事は生きていく上で絶対に覚えておかなければいけない大切なことだと思うので文字にして残しておく。
職場のことだから公開している場で詳細に書くことは避けるけどしばらく苦しめられていた超絶ストレス環境から近く解放されるかもしれない。
少し前から業務の人員配置の関係でどうしても合わない人と一緒に仕事をしなければいけないことになり、もともとよくなかった体調がさらに悪化したり夜眠れなくなるなどのストレスを受けていたけれど、私は当然のように仕事なのだから個人的な感情を持ち出すべきではないと考えていて、耐える以外の選択肢は存在しないと思っていた。
今の上司というだけに限らず上司という存在を信用したことがないし会社に何かを期待したこともなく、事情を訴えたところで聞いてもらえるはずもないのだから行動を起こすだけ無駄だ。
他人も環境も変えることはできない以上どうしても耐えられなければ自分がその場を離れるしかない。
今回最初に何が後押しになったのか今では思い出せないけれど、上司に話してみようかな、と思ったのだ。
あまりにも苦しみが大きすぎたのと、自分が去るとしてもこの状況で就職活動は厳しいというのがあったかもしれない。
どうにかしてほしいとは思いながらどうにかなるとは思っていなかったので、ただもう苦しみをぶちまけたいという気持ちだけだったかもしれない。
詳しくは書かないけれど、上司に話した結果人の配置を見直してくれる流れになったようだ。
もちろん私個人への配慮というよりは私が担当している業務への影響を考えてのことではあると思うけれど、私のために社内の各所に影響の出る対応を会社がしてくれるというのは本当に驚きだった。
驚きが大きすぎたことで、私は自分の声が人に届くこともあるし自分が大事にされることもあるということをあまりにも信じていないんだなと気づいた。
自分は社会のどこでも誰にとっても取るに足りない、気にかけられることもない存在なんだとこの時まで信じて疑ったこともなかったと思う。
他の人は当然享受できるものも自分はそうではないのが当たり前だと思っていた。
どうしてそんな確信をもって生きてきてしまったんだろう。
この気づきをまだどう生かしていけるかはわからないのだけれど、今回の衝撃は忘れてはいけないものだと思ったのだ。
数日経つうちに少しずつ実感も薄れていって元の自分に戻ってしまいそうに感じる。
もしかしたら小さいころからこういう実感を積み重ねていればこんな吹けば飛ぶような幻みたいじゃなく自分の中に根付いたのかもしれない。
今さらそれを言っても仕方のないことだけれど。
おわり。
7/12の日記
朝から海外ドラマのつづきを見はじめてしまい今日はこれで終わるかと思われたけれど夕方なんとか外に出た。
週末に家から出ることができたのは何週間ぶりだろう。
外に出たら夏だったので驚いた。
そうか、今は夏なのだな。
家にいる間は寝たきりで家から出るのもこんなに億劫なのに一歩外に出るとせっかくだから隣の駅まで歩いて駅前のお店をのぞいてこようかなという気になり、隣の駅が近づくころには気分が乗って結局2つ隣の駅まで歩いた。
歩きながらたくさん考えたことがあって、公園に着いたらベンチに座って今日の日記を書いてしまおうかなと考えていたのだけれどむき出しのすねを蚊に狙われることが怖くてちょっとだけベンチで池を眺めるにとどめたので何も書くことができなかった。結果、何を考えていたのかも今では思い出せない。
公園ではおじさんカメラマンが終わりかけの紫陽花の前にモデルの若い女性を立たせてこうなってはいけないよということを伝える写真だというようなことを話していた。
なってはいけないと言われても時間がたてば花は枯れるし人は年を取るんだけどな。
疲れが突然襲ってくるタイプなので2つ隣の大きい駅前で買い物をしようとしたところでほぼ力尽き、ほとんど何も見ることができないばかりか帰宅するのにも苦労した。
ゲームみたいに体力のゲージがあればわかりやすいのにといつも思う。
帰宅してもドラマのつづきを見るのはやめにした。
パッション強めのドラマを見続けたので見るのを中断してもずっと脳がカーっとなっている。
今夜すんなり眠りに入れるか心配だ。
おわり。
7/11の日記
きのうの日記でクラシック音楽のことを書いた流れというわけではないけれどプライムビデオでリストに入れてあったドラマ「モーツァルト・イン・ザ・ジャングル」を見はじめた。
NYの交響楽団を舞台にしたドラマで、クラシックを扱いながらもお上品でも優等生的でもなくまあまあ下世話でガチャガチャしている感じ。
基本ドタバタ劇だけれど、音楽関係に簡単にぐっときてしまう私は時折涙ぐむような場面もあった。
天才指揮者のロドリゴのキャラがとても魅力的で気に入った。
ところでロドリゴを演じているのはガエル・ガルシア・ベルナルだったんだけど、私はこの人の出演作を見た記憶はないにもかかわらずなぜ顔と名前が一致するんだろう。覚えていないだけでどこかで認識することがあったのかな。
クラシック関係の物語だと金色のコルダとかのだめカンタービレとか好きだけど、この辺りは音楽を志す若者の物語だったりするので、このドラマの音楽の世界で生きている大人たちの描かれ方も興味深かった。
何話だったか忘れてしまったけれどオーボエ奏者のヘイリーがオーボエを始めてみたいという中年男性に指導するエピソードがあって、結果としてその男はまああれだったんだけど、最初のレッスンでヘイリーがオーボエを手にした男性に「これであなたは音楽を奏でられる」みたいなことを言ったのが印象的だった。
そうか、楽器を手にすればその時から誰でも音楽を奏でられるのか。
楽器が手元にありながら理由をつけて触ろうともしない私には響くセリフだった。
やはり事態が落ち着いたらギター教室を探してみようか……とはいえ気持ちだけでは金銭面の問題はいかんともしがたいのだった。
それから最近モーツァルトのレクイエムを聞いていてこの合唱に参加できたらどんな心地かなと想像したりもしていた。
学生の時合唱部に所属していたからあの自分が消えて音の中に溶け込み陶酔するような感覚はなんとなく記憶に残っている。
これもまた探せば大人の合唱サークルなどいくらでもあるのだろうけど、どうせ練習もできないし、とできない理由を見つけて忘れようとしている。
やりたいことが思い浮かんだ時「明日自分が死ぬかもしれない」という設定で自分を追い込んで考えることがあるのだけれど音楽に関してはそこまでではないような気がする。
というより私には「これをやらなければ死ぬときに後悔する」というような差し迫ったものは何ひとつない。
おわり。